花窟神社・ 産田神社について語ろう!
花窟神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E7%AA%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE
産田神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A3%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE
行きたいー
木本神社はどうかな?
日本書紀』(神代巻上)一書には、
伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、
「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、
季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。
当社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」
ということによるものである。
神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる高さ6メートル、
幅2.5メートル、深さ50センチメートルほどの大きな窪みがある岩陰が
伊弉冉尊の葬地であるとされ、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている。
一説には、伊弉冉尊を葬った地はおよそ西1.3キロメートル先にある
産田神社(うぶたじんじゃ)であり、当社はこの火の神である軻遇突智の御陵であるともいう。
花窟神社では、伊弉冉尊の拝所の対面にある高さ18メートルの巨岩が、
軻遇突智の墓所とされている。
古事記や延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、
神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。
実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。
すなわち、もともと地元漁師の墓地が、イザナミ伝承とあいまって、
イザナミの墓所となった(なってしまった)。
,
~すなわち、もともと地元漁師の墓地云々~のくだりが
前段と全く繋がらないが?地元漁師が墓として使っていたのか?
漁師のみならず地元民一般の三昧(納骨墓)だよね、あそこは。
>>22
22氏の指摘が正しいように思えます。
そもそも、伊弉冉なる神を土葬にすることがわからない。
古事記においては、「かれその神避りし伊邪那美の神は、出雲の国(現在の島根県)と
伯伎の国(伯耆の国)(現在の鳥取県)の堺、比婆の山に葬りき」と記される。
イザナミの墓所の伝承地は、日本神話に記される比婆山や熊野市有馬のほか、
雲伯国境を中心として日本各地にある。
宮内省は八雲村(現 松江市)の神納山を比定地の中で最も有力として「陵墓参考地」に認定し、
内務省は船通山の北にある御墓山を「伊弉冉尊御陵流伝地」に指定していた。
しかし、近世以降、古事記解読に初めて成功した本居宣長の古事記伝の話と、
鉄製品を作る最良の砂鉄の産地は雲伯国境地帯であることから、
島根県安来市伯太町のもの(比婆山久米神社)が支持されていた歴史があり、
江戸時代、母里藩の古地図にも峯山大権現と記されているのが確認されている。
しかるに、伊弉冉の墓所とする伝承地は全国に10か所はある。
古代の人の伝承によるあとずけだと思ってしまう。
古事記が712年、書紀が720年の編纂ということからも推察するべきか。
雲伯(うんぱく)は、令制国にいう出雲国(島根県東部)と伯耆国(鳥取県西部)の
併称である。
「花の窟」もまた当域の死者、とくに漁民たちを葬る原始墓所と推察される。
熊野は黒雲母のこと。
出雲は毛利元就の思想で出来た神社。
青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されていますね。
佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県出水市、
いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などなど。
徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、
同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、
冠嶽神社の起源と言われる。
冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、
天然の葉たばこが自生。
丹後半島にある新井崎神社に伝わる『新大明神口碑記』という古文書に、
徐福の事が記されている。
徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である半両銭が
発見されている。
波田須駅1.5kmのところに徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢を
ご神体としている。
徐福が信濃の蓼科山に住んでいた時に双子が誕生。
双子が遊んだ場所に「双子池」や「双子山」がある。
徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し、
徐福伝説のストーリーは、地域によって様々。
『富士文献』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群で、
漢語と万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している。
富士文献は徐福が編纂したという伝承があり、また徐福の来日した年代が、
『海東諸国記』の孝霊天皇の頃という記述が『宮下文書』の記述と符合することが
指摘される。ただし、宮下文書はいわゆる「古史古伝」に含まれる部類の書物であり、
文体・発音からも江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、
記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない。
ということになっていますが
古事記を読むと、その前に幾多の神々が出現しては消え、出現しては消え、とあります。
その後、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を親として、天照大神が生まれます。
(伊弉諾尊だけで生まれます。)
この記述では、明らかに伊弉諾尊の子と思われます。
にも拘らずなぜ、皇室は伊弉諾尊を祖先としなかったのでしょうか?
伊弉諾尊は、古事記の通り、現在も多賀大社(滋賀県)に祀られていますが。
古事記なんて江戸時代までは裏ビデオみたいな存在で、マトモな人間は読まなかった。
見たら三国時代だから同じかな。
頭の龍は、今の寺社全般の龍の道のこと。
佐賀は、筑紫山地 天山
出水市は、中国から(主に汚染か)の守り
富士吉田市は、富士五湖の水脈
つまり神社の本来あるべき姿が残されている
9/8(水)「花の窟神社」の巨石が崩落。今月紀伊半島には台風も豪雨も襲来して
おらぬのに。風化崩れか?
”三重県熊野市有馬町の世界文化遺産「花の窟神社」で8日、ご神体の巨岩(高さ約45
メートル)の一部が崩れ落ち、石を敷き詰めた拝殿に落下しているのが見つかった。
崩れたのは縦約120センチ、横約70センチの岩で、けが人はなかった・・・・・・・”
世界遺産「花の窟神社」でご神体の巨岩崩落 三重・熊野 中日新聞 2021/09/08
記紀に記載され、
御利益ある非常に好い神社だな。
実際に記紀に記述あるし
そういや、石清水八幡宮も延喜式に載ってないのだが?
明治の薩長クーデターまで、石清水は石清水八幡宮寺という真言宗寺院だったからな。
それほど変わらない
記紀に記載され、
御利益ある非常に好い神社だな。
wiki
古事記や延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。
六国史について勉強してこい
六国史について勉強してこい
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1486734546/
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